ストーリーズ

砥部焼とわたし#005

ストーリーズ「砥部焼とわたし」

1777年(安永六年)に門田金治や杉野丈助らにより、砥部にて初めて磁器焼成に成功してから200年後の1977年(昭和五十二年)に砥部焼磁器創業二百年祭を記念して、発行された「砥部焼とわたし」。有名陶芸家をはじめ108名の方が、砥部焼との出会いや、つながりなどそれぞれの思いを綴った随想集を砥部焼協同組合の協力により紹介していきます。

瀬戸の磁器より三十年程早く完成されていた砥部焼

明治四十四年、京都市立陶磁器試験所の附属伝習所へ、特別科生徒として入学して、教えを受けていた。 その頃、日本で最も新しく築かれた独乙の倒焰式円窯で、還元焔焼成の実習を徹夜で行われた時、担任の橋本先生の談話の中に、李参平の創始による有田磁器と、加藤民吉の始めた瀬戸の磁器、杉野丈助の砥部磁器と、奥田頴川の工夫になる京の磁器との創始の順位を聞かれたが、当時生徒は誰も確答できるものがなかった。私は翌日、祖父にこの事を尋ねた。祖父曰く、李参平、杉野丈助、奥田頴川、加藤民吉の順位だと教えられた。而も、砥部の磁器は瀬戸の磁器より三十年程早く完成されていた事を知り尊敬の念を新たにした事を今もはっきり覚えている。
それ以来、祖父(初代陶山)は、よく閑をみて、書斎へ私を呼び、砥部焼の話、主として、砥部焼中興の祖、向井和平さんや、伊達幸太郎さんの話を聞かせてくれた。何となく私の頭の中に他の日本の陶産地と異なったものが植付けられたような気がします。

大正の初め頃、大阪心斉橋筋の戎橋北詰西側に数寄屋造りの白木のしゃれた店へ使いに行った。このしゃれた店が、向井和平さんの息、良平さんが経営する店舗であった。そのすじ向いに、大阪屈指の泉吉と云う有名な陶磁を商う老舗があった。向井さんの店には、砥部の白磁や呉須描きの食器や、淡黄磁の装飾品、白磁の大きい鶴の庭飾など、整然と陳列され、一部京都の陶匠の作品も並べられていた。心斉橋筋の清新な異色のある店舗であった。私、時々家の使いで訪れた。若ものどうし、よく話が合った。いつも時間の経つのを忘れて談笑した。出雲屋の鰻丼を馳走になるのが例であった。良平さんの話上手も手伝い砥部の風物に憧れが深くなった。大正八年頃、清水焼の子弟で作っていた青年会の有志数人で、初夏の頃、待望の砥部を訪れた。梅野さんの先代に大変お世話になり、見学の案内役を願ったり同家所蔵の貴重な呉須を頂いたり、名優井上正夫の縁りのお店で、鮎料理で食事を頂いたり今も忘れられないよい思い出である。
さて、時代が降って、昭和に入り、野本星黄(正光)君との出会の一節を書き残そう。

 京都では、師走の行事として華々しいのは、南座の歌舞伎芝居で一般に顔見世という。東西の名題の名優が競って出演するのが恒例で、京の師走は芝居に始まり芝居に終るというのが当時の(今も)ならわしであった。昭和八年、その師走の或る日。顔見世に出演中の東京歌舞伎の代表的名優松本幸四郎丈が西村徳泉(陶工で染付の名手)氏の案内で私方を訪れられ、大阪の名優市川市蔵さんから頼まれたのでという事で、伊予の松山中学出の青年、野本正光君を内弟子として陶芸を仕込んでくれまいかとの話で私も突然の事でびっくりした。しかし、伊予や砥部焼の事には深い関心を持っていたので、年が明けたら当人と会って、貴意に添うよう取計らうと約束した。翌年三月、中村さんという老紳士に伴われて来訪された。そして入門の契を結んだ。陶工の弟子入りに天下の名優二人も介在した事は誠に珍しい事だと思う。
 彼は、以来、私の家族と一つ屋根のもとで寝食を共にし、蛍雪の労を積み、陶芸の道に精進し励んだ結果、 日本で一番高度の芸術展へ出品し厳重な鑑査を経て、日展(官展)に数度の入選の栄誉をかち得た。作家としての地位を高めつゝ精進を続けた。この修業中の成果を、仲介者の大阪の市川市蔵丈、東京の松本幸四郎丈に報吉すべきであったが、大東亜戦争がたけなわとなり、芸能界も陶芸界も極度受難時代であったので、この報告をはたせなかった事は、返すがえす残念な事であった。
 さて、彼は十七年に徴用され、川崎重工業へ勤め、その後、兵役に召集され外地へ転戦することになった。 陶芸の道から十余年離れざるを得ぬ戦禍を受けた。当時の、国民の誰もが受けた災難であった。終戦後、郷里へ帰ったが、すぐ陶芸の道に戻れる程の平穏さも、豊かさもなく、社会情勢が芳しくない時であり、復興の機運待ち、二十六年八倉に矢取窯を創窯し、三十四年、現住地高尾田に移り、工房の整備とともに、新しい砥部の星黄焼として再出発した。彼の天性の才能と、積年の京都仕込みの技術が、工芸の条件(見て美しく、使って楽しい)星黄焼を創造した。誠にうれしい頼もしい事であった。作陶の道の探究の歩みをゆるめず、後進の育成に、つくしている事は、彼のふるさとへの報恩の念の証である。彼は私の最も信頼し敬愛する分身と言っても過言ではない。折角、大成を完成する事を望んで止まない。

林正幸君との交り
 野本君が入門して、京都の地理にも少しは馴れた頃、中学の同窓、林正幸君が国立京都高等工芸学校窯業科に入学(現京都工芸繊維大学)、吉田山麓に下宿していたので、二人の交友が修学の地、京都で一層密になり、私の工房へもよく通っていた。私は学校の勉学以外に、京都の誇る京式登窯での陶磁の窯詰め、窯焚き焚上げまでの焰の見分け等を会得しておく事が、将来に益する事が多いからと、実習を奨めた彼もまたよく実習に精を出した。その窯が、今は(河井寛次郎資料館)の登窯であった。彼は、卒業と同時に、満鉄に就職し、その間、小森忍先生や先輩の残された満鉄陶磁器研究室の莫大な貴重な資科で中国陶磁器の研究を重ねていたが、大戦の敗退で家族とともに内地に引上げ、私の家で旅装を解き、暫く静養しつつ再起への心構えを練っていた。かかる縁で、彼が砥部に帰り専門の陶芸指導の任に当り、三十四年から三十七年六月病をえて急逝するまで、県立窯業試験場長として、青年の育成と業界の指導に当った秀れた学究であった。
 彼の死は砥部焼にとっては誠に計り知れぬ損耗となった。よき学究正幸君の冥福を祈りたい。

玉井楽山のこと
 野本君が結婚して、東山の渋谷通(大仏方広寺の北畔)で新家庭を営んでいた所へ、訪れたのが玉井顕文で、京都で陶芸の勉強をしたいとの熱望であった。丁度国を挙げて、紀元二六○○年奉祝準備の年で国民の意気昂揚につとめていた頃で、今から三十七年も昔の事である。彼は私の長男と同年月日の生れで、私の家族の一員となり陶芸の初歩からの勉強に精を出していたが、時利あらず戦線拡大して戦果芳しからず、陶芸の制作安穏としている事を許されないきびしい時代に追われた。即ち、製作にも販売にも制約をもうけられ、材料のコバルト、金、銀の使用禁止、燃料の配給減少等、自由制作など望めない有様となった。とうとうあきらめて十八年末松山へ帰った。彼も又松山で戦災に遭った。終戦後、平和国家として出発を称えられ、彼も又念願の陶芸の道へ邁進したく燃えたが、社会はそんなに甘くない待機を余儀なくされた。二十五年から二十八年まで初夏の五月末から九月中まで毎年入洛し私方で止宿し、日展出品作の制作に頑張った。その頑張りの成果が、二、三度の入選の栄を重ねる結果となり、陶芸志望の初志を完遂した。そして芸術保存適格者と登録された。戦後、彼が入洛した時の五条阪は、強制疎開で目も当てられん許りの索漠たる有様であった。丁度、我家の向いの清水六和先生の仮偶の庭に見事な向日草が強烈な太陽の光をうけて大きな花を咲かせていた。私はこの力強い花を題材として、日展出品作に手懸けたらと意見一致し、彼は不自由な足にもかかわらず足場を造って、写生に励んだその姿が今も私の眼底にやきついている。六和老先生はその姿を見て、「顕さん落ちないよう気をつけや」とやさしく注意し励まして頂いた事など温い思い出である。この向日を題材にした大作が、彼の日展初入選の記念すべき作品となった。三十九年友人と謀り双葉陶苑を開始し、新形花器の製産に努めたが数年前量産事業から手を引き、奥道後の奥の現住地に新しく楽山窯を築き精励している。彼もまた、円熟した技術と旺盛な意欲から生まれる楽山焼を通して砥部焼の隆盛に寄興するものと期待して止まない。

泰山俊光のこと
 四十年春に先がけ、泰山製陶所の義昭君の長男俊光の入門を懇望されたが、私の年齢が古稀に達し、子弟の成長(一人前の陶芸家になるまで)責任を果たせない事も生じると自覚して、入門を承諾出来なかったが、父泰山義昭君の温厚な人柄と熱烈な我子に抱く大きな夢と懇望に押されて承諾をせねばならなくなった。俊光は私の家族の一人となり毎日毎日が人生修業の出発となった。彼は四十一年四月京都府立陶工専修訓練学校陶磁科に入学し、翌四十二年三月優秀な成績を修めて卒業し、京都府知事の特別賞を受賞した。以来両三年工房で私の仕事の助手をつとめつつ陶芸技術の体得と人間修養に精進した。そろそろ京展や日展への出品を手懸けなければならない頃に突然砥部へ帰った。彼の親父も私も残念であった。彼は、陶芸家としてよき才能の持主であるが、伝統技術の未完のまま帰砥したが幸いよき理解者や後援者も得て愛媛県展に出品して二度三度と知事賞や優秀賞の受賞を得る幸運な出発であった。三、四年前、南予景勝の地、御荘町の推薦と有力な好事家の後援で明治中頃に絶えた、御荘焼の再興の荷い手に推され、長月砥岩に開窯し鋭意復興に努力している。蓋し、磁器の精製は至難な大事業ではある。暫く、気長に成長を見守ってやって欲しいと念願する。御荘は昔、京都の此叡山延暦寺派の粟田の青蓮院 (代々の院主は皇族出身)の荘園であった事など、私の粟田焼の系統とも浅からぬ縁のつながりが不思議である。彼も折角努力精進して大方の期待に報いて欲しい。願わくば、あの美しい景勝地の環境を汚染しないよう今後、窯の築窯などに留意して欲しい。

伊藤 翠壺 / 陶芸家

本書p10-14より引用

ストーリーズ「砥部焼とわたし」#006はこちらよりご覧ください。

1977年(昭和52年)出版「砥部焼とわたし」の随想集より
出版元:砥部焼磁器創業二百年祭実行委員会編
協力:砥部焼協同組合


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