ストーリーズ
砥部焼とわたし1977#002
ストーリーズ「砥部焼とわたし」
1777年(安永六年)に門田金治や杉野丈助らにより、砥部にて初めて磁器焼成に成功してから200年後の1977年(昭和五十二年)に砥部焼磁器創業二百年祭を記念して、発行された「砥部焼とわたし」。有名陶芸家をはじめ108名の方が、砥部焼との出会いや、つながりなどそれぞれの思いを綴った随想集を砥部焼協同組合の協力により紹介していきます。
今は遠き砥部の里を瞼に
”砥部へ仕事を移しては如何ですか”との勧誘が、愛媛県商工観光課と伊予陶磁器協同組合の名のもとに私になされたのは、昭和二十九年の夏も盛りを過ぎた頃と記憶して居ります。
その頃の私は、三室の登り窯を持ち、青年作家(三○才)としての道を歩き出していた自分に、疑問を抱いて居りました。現在を否定する事によってのみ、真の民芸運動の実践あり、と思いつめて居りました。つまり、百貨店に例を取るならば、美術部の仕事はしないで、雑貨部、家庭用品部の仕事なのです。一般家庭の用途に耐え得る、価額とディザインの陶磁器を、如何に健全で美しいものにするかの仕事。伝統的手工芸と近代機械工芸を、好適なる工程によって融合する事こそ、滅びゆく民芸を次の時代の民芸として花咲かせてゆく唯一の方法だ。これこそ陶工としての、男子一生の仕事也。と意気まいている所へ、此の勧誘です。若気の至りと申しょうか、二つ返事でその話に乗ったものでありました。
愛媛碍子株式会社の、当時第二工場として運休していたのを貸借し、中元寅義氏と云う絶好の協力者を得て、従業員十名程度の町工場を経営する事となったのでした。西条のちゃんとした細工場と窯と住居を捨てて、砥部の事務所脇の三帖の宿直室に移り住んだのでありました。
染付磁器の食器を、手工芸と機械工芸の合作により、丈夫で使い易い、美しい雑貨に仕立てるんだと、理想を大上段に振りかざして、意気揚々たるものがありました。民芸協会の全国大会が昭和二十九年秋には、山陰の松江市で開催され、出雲大社の境内で、柳、浜田両先生に、しっかりやり給え、と祝福され、神社詣にあやかって「祐工社」と云う名前も頂いた事、昨日の様な気が致します。
サラリーマンの家庭に育ち、事業経験皆無の私には、資本金不足、借金財政の無理が根本的欠陥として理解出来ていなかったのです。前例のない新製品を多くの人々の協合によって創作する事の困難はもとより覚悟の上でありました。しかし今迄の商業ルートになかった新しい品物を、コンスタントに売って行く事が、如何に大変であるかが身にしみてわかる迄に、数ヶ月も要しなかったのです。従業員数三十数人と云う好況の一時期もありましたが、約六ヶ年で、保証人協同主催の経営に譲らざるを得ない終末となりました。
思えば苦しき事のみ想い出されますが、柳宗悦先生をはじめ、浜田、富本両先生に御来砥を願い、砥部と云う上質の磁器生産地を知って頂いた事、砥部にとっても民芸協会にとっても、有難い機縁でありました。鈴木繁男氏、藤本能道氏の諸先輩に、何回にもわたって指導を受けた事、慚愧の心と共に感謝の気持未だ忘れ得ない所であります。特に鈴木繁男氏には、私の去ったあとも、梅野武之助氏の深い理解によって、十数年にわたり指導を受けた事が、今日の砥部の磁器食器の成功の基となった事、衆知の事でありましょう。
若き日に自己のライフワークとして念願した染付磁器の食器生産が、二十数年の歳月を経て、如何なる形にもせよ、しっかりと砥部の地に定着した事を心から喜んでいる者は、私をしてその最たるものと自負致して居ります。
折しも、磁器創業二百年祭に当るという。短い歴史の流れの中にも、栄枯盛衰、富める人、傷つく人、様々の人間の情感の移り変りのあった中に、やはり人間の意志のみが歴史の流れを変え得るものと、思い至るのであります。
手工芸と機械工芸との融合に関しては、人間の働きというものを媒体として考えるとき、本質的な競合があり、およそ美を目的として考えるならば、非常に無理な相談である事が、その後の生産性研究や動作分析(タイムスタディ)により明らかとなりました。此の件に関しましては、又別の機会に申し述べたいと思います。
此の磁器創業二百年祭を契機として、益々食器生産の土地として、用と美の太い根を大地に深くはびこらせ、次の歴史を輝かしいものにして頂きたく、今は遠き砥部の里を瞼に描きつつ祈り奉る次第であります。
阿部祐工 / 陶芸家
本書P4-P6より引用
ストーリーズ「砥部焼とわたし」#003はこちらよりご覧ください。
1977年(昭和52年)出版「砥部焼とわたし」の随想集より
出版元:砥部焼磁器創業二百年祭実行委員会編
協力:砥部焼協同組合