ストーリーズ
WHETSTONE RESEARCH Activity Report 2024 前編
WHETSTONE RESEARCH Activity Report 2024 前編
日程:2024年11月8日(金)
砥部焼の陶石原料の可能性を探求するプロジェクト「WHITESTONE RESEARCH(WSR)」の活動報告を、松山市柳井町のWHITE/BLUEにて開催しました。
関連プログラムとして、地域に関わるさまざまなゲストと一緒に、陶石原料をテーマとして、地域と産業の未来について考える勉強会を行いました。
プログラム前半は、愛媛大学 准教授で、考古学を専門に文化資源を活かした地域社会の持続的発展の研究と実践を行う槙林さんより、「砥部焼」の歴史遺産を例として、地域振興の可能性を探る取り組みの紹介を中心に、「地域資源」をテーマにトークセッションを行いました。プログラム後半は、WSRが水面下で進めてきた活動報告を中心に、「陶石原料」をテーマにトークセッションを行いました。
主催:WSRメンバー
岡部修三 / 株式会社白青 代表取締役
日野達真 / 株式会社白青
泉本明英 / 株式会社 砥部焼千山 代表取締役
宮崎達郎 / 石真堂 代表
参加者:五十音順
安達春樹 / 愛媛県産業技術研究所 窯業技術センター 主任研究員
池田富士夫 / 龍泉窯
岡田洋志 / 砥部町前副町長
清水淳子 / ジャンボ編集室
首藤喬一 / 愛媛県経済労働部産業支援局産業創出課技術振興グループ担当係長
曽我部洋平 / カメラマン
平岡宏幸 / FAKIE STANCE 代表
二神桜美 / WHITE/BLUEメンバー
二宮良和 / エヒメセラム株式会社 代表取締役
槙林啓介 / 愛媛大学社会共創学部地域資源マネジメント学科 准教授
山下夏里 / 愛媛大学社会共創学部学生
松永公一 / 末広工業 株式会社 代表取締役
村上雄二 / 株式会社伊織 代表取締役
山口暁 / 山口暁建築研究所
文化財と地域づくり
ー 地域の基盤としての砥部焼遺産 ー
愛媛大学 槙林准教授が行う、研究活動をに関する本レポートをきっかけに、砥部焼を中心とした地域づくりの可能性を探ります。槙林さんは、文化財を地域の基盤として位置づける重要性に着目し、250年の歴史を持つ砥部焼の再発見や地域資源としての活用を通じて、住民意識の向上や地域社会の活性化を目指す取り組みとして紹介しています。また、日本全体で進む「歴史まちづくり」や「日本遺産」の事例を交え、文化財が地域の記憶を未来へつなぐ役割について考察しています。
示唆に富む問いかけの一端をレポートとしてご紹介します。
はじめに
本日は「歴史遺産と地域づくり」をテーマにお話しします。
話の内容は3つのセクションに分かれます:
1.砥部焼遺産と地域づくりに関する取り組み
2.文化財は「地域の基盤のひとつ」
3.脱文化財の試み
砥部焼の歴史は1777年に始まり、約250年の間、地域文化として継承されてきました。この歴史を理解することは、現在の砥部焼を活かし、未来につなげるために重要です。よって今日は、地域資源としての可能性について考察できればと思います。
砥部焼遺産と地域づくりに関する取り組み
砥部焼は250年以上続く貴重な磁器産地で、日本国内でも希少です。有田焼や美濃焼と異なる独自の歴史と文化を持ち、自治体が地域振興の柱として活用しています。
砥部焼の歴史を地域づくりにどう活かすかが、未来の地域発展において重要な課題です。私たちの研究では、その独自性と可能性を再確認してきました。
歴史まちづくりと文化財活用
近年、「歴史まちづくり法」や「文化財保存活用計画」などを通じ、歴史を活かした地域づくりが進んでいます。日本遺産の取り組みでは、文化財を観光資源化する一方で、地域住民の再発見の場を提供しています。これらは地域活性化と住民意識の向上に繋がると私は考えています。
砥部焼の遺跡調査
昭和期に砥部焼の遺跡調査が一部行われましたが、十分な管理はされていませんでした。私たちは砥部町教育委員会と連携し、遺跡の調査と整備を進めています。この活動により、砥部焼の文化財的価値を地域資源として活用する基盤を築きつつあります。
2021〜2022年の調査で、65箇所の窯跡を確認しました。特に注目すべきは、「登り窯」と呼ばれるタイプの窯跡です。登り窯は、斜面を利用して熱効率を高める仕組みが特徴で、複数の部屋が段々状に連なる「連房式登り窯」が見られる場所もあります。この風景は砥部の歴史を語る上で象徴的な存在であり、当時の砥部の風景は、三方向に目を向けるといたるところに登り窯が見える状態だったと言われています。登り窯の近くには煙突が立ち並び、それを支える多くの人々が住んでいました。職人だけでなく、窯の管理や製品の流通を担当する人々もコミュニティを形成し、この風景が砥部の特徴的なものだったのです。
これらの遺跡からは、砥部焼がどのように生産され、どのような技術が使われていたかが見えてきます。
地域基盤としての砥部焼遺産
文化財を地域の基盤の一つとして捉えることが、地域づくりにどのように役立つのでしょうか。地域づくりには、行政機関や交通インフラ、上下水道、廃棄物処理施設、学校、病院、スーパーマーケット、銀行といったさまざまなインフラが必要です。これらは地域の生活を支える重要な要素です。
私たちは、文化財もこれらと同じように地域の基盤の一部として活用できるのではないかと考えています。文化財は、地域のアイデンティティを形成するための重要な要素となり得ると私は信じています。
歴史遺産としての文化財
「文化財」という言葉に関しては、私たち自身もその捉え方について考え直す必要があると感じています。多くの人が「遺跡・文化財」と聞くと、廃墟や廃棄された場所といったイメージを抱くことが多く、それが「文化財」になってもどこか現在社会と遠い存在のように思われているように感じます。
私は、この言葉を「歴史遺産」と呼び換えています。「遺産」という言葉には「次世代に引き継ぐべき価値のあるもの」という意味が込められており、より親しみやすく、地域の人々にとって重要な存在であることを強調できます。
歴史遺産としての遺跡の重要性は、その物自体だけではありません。遺跡は地域の記憶を保つ役割を担っています。実際にその場所を訪れることで、「ここで人々が生きていた」という記憶が深く実感できるのです。このような記憶が地域のアイデンティティを支え、地域全体の活性化に繋がります。
まとめ
文化財を地域の基盤として活用することは、地域全体の活性化や持続可能な発展に寄与します。文化財を取り入れることで地域のアイデンティティが強化され、地域社会全体の協力が促進されます。
これらの取り組みを通じて、地域がより良くなることを目指し、私たちは引き続き活動を進めていきます。
ありがとうございました。
トークセッション / 勉強会(2024.11.8)
広がる考古学の可能性
岡部:今日は勉強会という場ですので、ぜひ皆さんにも積極的にお話ししていただき、一緒に議論を進めていきたいと思っています。
槙林:少し補足させていただきたいのですが、私たちの活動は、砥部の250年の歴史を背景にしています。その中でたまたま今、自分たちがその一部を担っているという感覚があります。
岡部:なるほど。その250年という長い歴史の流れを感じながら、現在の活動を位置づけていらっしゃるのですね。
槙林:そうです。その歴史の一部として、未来に向けた新たな価値をどう築いていくかが、私たちの挑戦だと考えています。私たちが砥部に関わるようになったのは、ある意味で巡り合わせです。生きている中で偶然関わる機会を得て、「面白いな」と思いました。せっかく関わったのなら次につなげていきたい、そんなモチベーションで活動しています。最近はますます、歴史がとても興味深いと思うんです。
岡部:具体的には、どういった点が興味深いのでしょうか?
槙林:一つは、調査やアーカイブの可能性が広がっていることですね。例えば、デジタルスキャン技術が発達して、以前よりも多くの情報を保存・解析できるようになっています。今夏に調査を行った「白水窯」でも赤外線3Dスキャンを取り入れて、実測・記録を行いました。
こうした技術のおかげで、発掘されたものからわかる情報が増えたり、航空写真を活用したリサーチで新しい視点を得られたりしています。目に見えるものだけではなく、目に見えない部分も含めて調査の可能性が広がっているんですよね。
岡部:技術の進化が、研究の幅を広げているというわけですね。
槙林:そうです。それに加えて、今ならまだ直接話を伺える砥部焼の関係者の方々がおられることも非常に重要だと感じています。ただ、そうした方々が少なくなってきているのも現実です。直接伺わなければわからないことや、聞かないと話していただけないことも多いので、非常に貴重な時間だと思います。
岡部:話を聞けるうちに記録しておくことは大切ですね。
槙林:はい。そして、話を伺ったり想像したりすることで、歴史に対する理解がより深まります。そういった点で、考古学と砥部の研究が結びつくのが非常に面白いです。
現代と繋がることの重要性
岡部:250年という時間について伺いたいのですが、考古学の中で250年というスパンはどのように捉えられるものなのでしょうか?考古学の視点から見ると、長いとは言えないですよね。
槙林:そうですね。考古学では数千年という時間軸で見ることが一般的ですが、それとは別の視点で250年というスパンには特別な意味があります。この250年の歴史を現代にどうつなげるか、それが非常に重要なんです。
岡部:なるほど。長さを超えて過去と現在をつなげるという視点が重要だということですね。
槙林:はい。例えば、私たちが普段研究している数千年前の出来事でも、現在にどう影響を与えているのかを考えることが重要です。250年という期間は比較的近代に近く、現代と直結しやすい点で、特別な価値があります。
岡部:具体的にはどのような形でそのつながりを感じますか?
槙林:250年というのは、人が生まれてから死ぬまでの営みをかなり具体的に追える期間です。そのため、当時の人々を生身の人間として想像しやすい。これは、長い時間軸で見る歴史とはまた違ったリアリティがありますね。
岡部:そういう意味では、当時の窯元やその技術の話も、今と直結する部分が多そうですね。例えば、砥部焼の初期について直接知っている方はいらっしゃるのでしょうか?
槙林:250年前というと、すでに関係者でも記憶が途絶えてしまっていますが、戦後復興期に窯を支えた方々の話は少し伺えます。それでも、遡っても明治中期以降の話が中心ですね。
岡部:なるほど、直接のつながりは難しいかもしれませんが、間接的な情報を基に現在を振り返ることはたしかに重要ですね。
地域産業として発展した戦後復興期
岡部:今は登り窯を使うところはほとんどなくなっていますが、昭和30年代までは普通に使われていたんですよね?
槙林:そうですね。その頃から重油窯が普及し始めて、昭和30年代後半になるとガス窯や電気窯に移行する動きが一気に進みました。
岡部:電気窯の普及はどのように進んだんですか?
槙林:当時は電力の供給が安定してきていて、電気窯が手頃な価格で手に入るようになったのが大きいですね。京都の業者さんなんかが小型の電気窯を提供するようになって、10キロ、20キロの容量の窯が普及していきました。
岡部:池田さん(龍泉窯)のところは、代々窯業をやられていたんですか?
池田:いえ、私が始めたのは戦後の話です。復員して戻った後、山の仕事をしていて、木材加工の端材を燃料にして窯を運営するようになりました。最初は薪窯でしたが、徐々に重油窯や電気窯に移行していきました。
槙林:なるほど、地域の資源を活用した形だったんですね。
池田:そうです。戦後の復興期には、燃料屋さんや窯泥(窯道具)を扱う業者、販売組合が協力して窯元を支える仕組みができていました。その中で徐々に高度経済成長期に対応する形で窯業も発展していったんです。
岡部:窯元を支える様々なジャンルの職人さんたちも重要な役割を果たしていたんですね。
池田:はい、窯を作る専門職の方々がいて、壊れた窯を修理したり、新しい窯を設置したりしていました。そうした職人さんたちが地域の窯業を支えていたんです。
産業のスケールと歴史のスパン
岡部:それにしても、歴史をたどると三代、つまり100年程度遡ると記憶が途切れてしまうことが多いように感じます。
槙林:確かに、歴史を記録して意識的に残していかなければ、300年くらいのスパンで産業の形も更新され、記憶が消えていくんでしょうね。
岡部:日本語には「雲孫(うんそん)」という言葉がありますよね。9代先、つまり約270年後の子孫を指す言葉ですが、ちょうど砥部焼がそのスパンに近づいているように思います。興味深いのは、このくらいのタイミングで過去をどう理解して、次にどうつなげるかを考える必要があるということです。
槙林:その通りです。今、私たちがこの歴史を記録し、未来に伝えることができる最後の世代かもしれません。それを意識しながら活動を進めています。
岡部:過去と未来をつなぐ取り組みとして非常に重要ですね。
槙林:もっと長く続いているものも世の中にはありますが、それは個別的には相当な活動を伴ったり、あるいは非常に大きな産業になった場合に限られると思うんです。普段の生活に根付いた産業として考えると、大体250年くらいがギリギリ理解できる範囲なのではないかと思うんです。
岡部:確かにその感覚はありますね。砥部焼も、250年前のことを知っている人はいません。でも、何とか繋げられる部分が少しは残っているのではないかと思って興味を持っています。
槙林:それが今日の話を伺いたかったきっかけなんです。例えば、この型紙染付の磁器なんかも、明治後半から大正、昭和初期にかけて作られたものですけど、これを砥部焼きとして認識している人がどれだけいるかというと、ほとんどいないのではないかと思います。大量に作られた時代があったのに、その記憶がほとんど失われています。当時は、梅野窯(現梅山窯)や工藤窯、さらには下梅野窯(梅野窯第二工場)などで膨大な量が作られていました。でも、今ではその事実を知っている人はほぼいなくなりました。
砥部の可能性
槙林:これらは陶器ですが、「昔、陶器を作っていたよね」という記憶は断片的には残っていますが、その具体的な記録や認識は途切れていますよね。例えば、現在の窯元でも、商品としては白い磁器を中心に作られていますが、自分たちの工芸展や展示会に出すために陶器を作ることもあります。砥部焼きでは、磁器と陶器が共存しているのが特徴的で、同じ窯で一緒に焼くことが普通なんです。それは他の地域では珍しいことで、有田や美濃では、陶器と磁器を一緒に作ることはありません。でも砥部焼きではそれが普通で、歴史的にもその共存が根付いています。ただ、その独特さや背景がうまく伝わっていないように感じます。
岡部:確かに、それはもっと伝えるべき価値がありそうです。
岡部:砥部焼きでは磁器と陶器を同じ窯で一緒に焼くことが普通とおっしゃいましたが、それがどのようにして定着したのか、背景をご存じですか?
槙林:砥部焼は江戸後期に磁器生産を始めますが、それ以前から陶器を生産しており、その後も原料や焼成技術の特性を生かして磁器と陶器の生産を両立させてきたのだと思います。
特に砥部は山が多い土地柄で、良質な原料が豊富に採れたため、両方を同時に生産する環境が整っていました。
岡部:その特徴が、他の産地と異なる「砥部らしさ」を作り出したんですね。
槙林:ええ、ただ、それが「普通」すぎて、逆に地元でも重要性を意識されていない部分があります。歴史を掘り下げていくと、この「普通」が実は非常にユニークなことだと気づかされます。
岡部:そういう独自性は、もっと地域の文化的な誇りとして伝えていけると良さそうですね。
槙林:そうですね。それが砥部焼きの次の250年を形作るための大切な価値のひとつだと思います。
営みとしての「砥部焼」
岡部:民藝運動という活動について、私は客観的に評価をして各地を巡った活動だと捉えています。その影響で商業的に広がった一方で、逆に産地が止まってしまった部分もあるように思います。
槙林:確かにそうですね。そのような活動によって形として残ったものもありますが、300年持たずに途絶えていくことも多いように感じます。一方で、砥部焼のような生活に密接に結びついた営みはもっと残りやすいのかもしれません。
岡部:その違いはスタイルとしての「民藝」と、営みとしての「砥部焼」にあるように思います。砥部焼きの場合、材料があり、生活に近いところで使われ続けているからこそ、長く残るのではないでしょうか。
槙林:おっしゃる通りです。一部の量産品と民芸の活動が似た結果を生んだという視点もあります。それでも砥部焼きの場合、陶器と磁器の共存が特異で、その希少性や地域の特性が評価される部分もあります。
岡部:その点が砥部焼きを支える基盤として重要ですね。ただ、陶石の確保など、持続可能性の課題もあるように感じます。
槙林:そうですね。陶石の問題は確かに難しい部分がありますが、これからも地域の資源を活用しながら、何百年も続けていける何かを作る必要があります。
岡部:それが今日の議論のポイントにもなりそうですね。次のスライドを見ながら、さらに具体的な話を進めていきましょう。
WHETSTONE RESEARCH Activity Report 2024 後半へ続く。
企画:WSR
編集:Tatsuma Hino(Shiro Ao)
写真:Yohei Sogabe
資料提供:愛媛大学社会共創学部地域資源マネジメント学科文化資源マネジメントコース / 槙林啓介准教授