ストーリーズ

砥部焼とわたし#010

ストーリーズ「砥部焼とわたし」

1777年(安永六年)に門田金治や杉野丈助らにより、砥部にて初めて磁器焼成に成功してから200年後の1977年(昭和五十二年)に砥部焼磁器創業二百年祭を記念して、発行された「砥部焼とわたし」。有名陶芸家をはじめ108名の方が、砥部焼との出会いや、つながりなどそれぞれの思いを綴った随想集を砥部焼協同組合の協力により紹介していきます。


印象深かった砥部行き

 私が砥部行きを思い立ったのは、畏友であり、二十年近い飲み友達でもある東京芸大の藤本能道教授の薦めがあったからである。彼は現代色絵磁器の先駆者である富本憲吉、加藤土師萌両巨匠の愛弟子で、秀抜な 腕前を持つ色絵磁器の陶芸家でもある。大学の先生にしては、珍しく、モノをはっきりといい、めったにお 世辞は言わない。その彼が「若いころ、富本先生の縁で、砥部には技術指導によく行ったが、実にいい所だ。 人間もいい。中でも梅野(精陶所)のおやじはできている」と、いつもほめていた。
 鳴門にある大谷焼・田村陶器製造所の御曹子・田村功君の案内で、砥部へ行ったのは、昭和五十一年の初夏だった。
 鳴門から砥部までは、およそ二百二、三十キロ。ちょうど四国を東から西へ横断するかっこうで、車は走った。 朝の出足は快調。窓外の美しい風景を賞で、讃岐うどんに舌鼓をうつ余裕もあった。ところが高松を過ぎるころから様相が一変した。道が車で埋まった。一キロ行くのに半時間かかることもあった。考えてみれば、連休の一日だった。砥部に着いたのは、夜七時すぎ。普段の倍の時間――十時間近くかかった勘定だ。 梅野精陶所社長・梅野武之助さんとの約束の時間は、とっくに過ぎている。ともかく会ってお詫びしようと、 夜道を尋ね尋ねして、ようやく梅野さんのお宅へ。理由を話し、詫びをいって、その夜は道後温泉へ引き返した。

 「汽車で行くより、車の方がよっぽど早いですよ」と、親切に車を運転してくれた田村君はすっかりしょげて、「すみませんでした」の繰り返し。「いいよ。君が悪いんじゃあないもの。それより、どこか今夜泊るところを探さなくっちゃあ」と水を向けると、彼はあわてて時計を見た。もう九時をとっくに回っている。「あ、こりゃあいけない」と、すっとんで行った。半時間もたったろうか。汗をふきふき帰ってきた。「温泉街の正規の案内所で探してもらったが、きょうはどこも満員で、なかなか見つからなかった。ようやく一軒、 まともな旅館が見つかった」という。行ってみると、確かにまともな旅館だったが、安普請で、隣りの部屋の話し声はつつ抜けだし、頼みのフ口までぬるかった。またも恐縮する田村君を、「ま、いいじゃない。これも人生。いい思い出だよ」と元気づけ、二人で寝酒をあおって、眠った。田村君の寝顔が、いじらしかった。
 翌朝、車は再び砥部へ向って走った。昨夜は、目に入らなかった陶郷・砥部のおだやかな町並みや、美しい自然のたたずまいが、新緑とともに目にしみた。梅野精陶所(梅山窯ともいう)では、梅野さんが、昨夜のことにも懲りず、ちゃんと待っていてくれた。そして休日にもかかわらず、工場はじめ、登り窯や古陶陳列館、製品の即売陳列場などを、自分でくまなく案内し、丁寧に説明してくれた。
 道行きの難儀と、現地での楽しい半日。私にとっては印象深い“砥部行き”だった。

勇気と知質と自戒

 私が砥部のやきものを、初めて見たのは、今から十六、七年も前のこと。確か、名古屋の丸善・クラフトセンターであったかと思う。梅野精陶所の「菊絵染付の鉢」とか「糊絵染付のご飯茶碗」などを見た記憶がある。以来、随所で随分とお目にかかった。おかげで、今ではすっかり顔なじみである。どこに在っても、 砥部の品物は、すぐにわかる。私の商売のせいかとも思ったが、そればかりではないようだ。「砥部の製品には、何か個性がある」という人が多い。それは磁器の民窯として一貫した歴史があり、今日まで続いている “自信”からくるものに違いない。いま一つは、創業以来、砥部の人々が抱き続けてきた “進取の気象”の成果だと思う。
 砥部は創業時、当時の先進地である九州肥前・長与窯の職人五人を雇い入れて窯を焚かせ、後には、九州筑前・上須恵の陶工の進言を採用して、釉薬の改善を計るなど、外部のすぐれた技術を虚心に、積極的に導入し、成功した。この精神は、現代にも生かされている。柳宗悦はじめ浜田庄司、バーナード・リーチ。さらには富本憲吉、 藤本能道といった一流作家を、梅山窯を中心に招聘し、デザインその他の技術指導を受けた。この結果は、東京・丸善のクラフトセンターに行って見ると、よくわかる。ここには陶磁器ばかりでなく、漆・金工・木 外竹工・紙芸と、あらゆる工芸品が、クラフトという名で、全国から集められ、並んでいる。その総数は膨大なものであろう。だが中心は陶磁器である。皿、鉢、茶碗、花瓶、箸置とあらゆる分野にわたり、数百点にものぼるという。ところが、この半数以上を砥部の製品が占め、そのまた半数以上が梅山窯のものとのこと。 見ると、呉須、または呉須と赤絵の線描きが多い。明らかに富本先生の影響を受けたデザインである(畏友、 藤本教授のそれを感じるものもある)。日本の名ある陶芸家の中で、富本先生ぐらい、「量産」について真剣に考えた人はない。梅野さんは、「全く、幸せな出会いでした」としか言わなかったが、この人を指導者に選んだ砥部の人々の“慧眼”を思った。
 見逃せないのは、招聘した指導者たちの話におぼれず、その長所を、自分たちの土地に密着した特色の中へ付け加えて行ったことである。いってしまえば、なんでもないことのようだが、実際にはなかなか難しい。 例えば、指導してもらった先生への気兼ねもある。指導してもらった一部分だけをとり入れて、後を切り捨てる。これには、かなりの“勇気と知恵”がいる。まして、こうした先生の招聘には、普通の何倍もの金がかかる。おいそれとは出来ないことだ。もっとも、丸善の例でもわかるように、長い目で見れば、この投資は安いものだが…。

 いま一つは、食器中心の生産である。昨今は、ご存知のような“やきものブーム”。様々な展覧会が開かれているが、ほとんどが、諸先生の茶器や花器展。肝心の庶民の工芸品は皆無に等しい。”やきものブーム”は、 商業主義の中に打ち立てられた“虚構の楼閣”ではないだろうか。工芸の本質は、何といっても、他人様に使ってもらうことにあるのではないだろうか。陶磁器で言えば、三度三度使う食器にこそ、エネルギーは集中さるべきだと思う。自称・他称をふくめ、ゴマンといる陶芸家の中で、本当に食器の作れる人が何人いるか。砥部が、梅山窯を中心に、黙々と食器造りに励んでいるのは、軽佻浮薄な風潮に対する一つの警鐘であると見るのは、私ひとりであろうか。とはいえ、その砥部も、次第に商業主義に毒されてきている、という 批判もある。初心を忘れず、自粛・自戒して、大成するよう、心から祈りたい。
九原 常雄 / 工芸評論家

1977年(昭和52年)出版「砥部焼とわたし」の随想集より
出版元:砥部焼磁器創業二百年祭実行委員会編
協力:砥部焼協同組合


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