ストーリーズ

窯元コラボレーションプロジェクト#八瑞窯

「大物をつくるなら白潟さん」と、多くの陶芸家から称される古参。長年にわたって培われてきた知識と技術をもとに、親しみやすいキャラクターで砥部焼を次世代につなぐための行動を起こしてきた八瑞窯の白潟八洲彦さんと、新しい坏土で新たなトライをしました。


—以前、砥部焼協同組合で理事長を務めていたという白潟さん、砥部焼作りに関わるようになってどのぐらいですか。


中学を卒業してから五松園窯でお世話になりましたので、もう60数年ですね。私のいとこの酒井芳人氏が砥部焼をやっていたので、そこを手伝い始めたのがきっかけです。昭和30年頃は、日本が少しずつ元気になってきた時代で、砥部焼も調子が良く年々忙しくなってきました。当時、定時制高校が砥部にもあり、働きながら夕方から登校して勉強し、また大いに遊んでいました。

—それから独立までの流れは?

日々やっていると砥部焼のことを手が覚えるんですね。土を扱う生活が13年あって、「土の手」を得て20代も後半になって、ようやく自分の将来を考えるようになりました。東京オリンピックの頃にちょうど、青年海外協力隊がこれから始まるというのを知り、その後地元の新聞で「砥部焼の職人を求む!」というのを見つけ、その時、やきもの屋でも行けるんだと思いました。

—それで2年間海外へ出ることを決めたのですね。

しばらく砥部を離れると自分の気持ちの整理もつくだろうし、色々な経験もできるだろうと参加しました。いとこも俺のいない環境で、新しい仕事のやり方を模索してくれるだろうと。そして2年間フィリピンでの生活を終えて砥部へ戻ると、いとこは仕事場も仕事の内容もガラリと変えるような大変化をしていました。

—帰ってきてからはいかがでしたか。

親父と相談し今の場所に工房をもとうと思っていたら、いとこの仕事場の新築を始めるから、いらない道具は持っていけと言ってもらえて、ちょうどよかった(笑)。レンガやかまざや(窯の柱屋根)まで重いものから何もかももらって来た 。とにかくずっと今も酒井には世話になりっぱなし。

—当時、砥部では窯が増えていたのでしょうか。

昭和45年は万博があった年で、日本中が湧いたんです。イケイケどんどんの風潮もあり、いい時代でした。仲間も独立していった人が多かったかな。現在の砥部は小さい窯がそれぞれ独自の仕事をしているのが特徴です。それが可能になってきたのも、やきもの業界で起きた大改革のおかげでしょう。

—大改革とは?

まずは窯ですね。やきものの燃料は何千年も前から薪だったんですが、それが最初は油の窯が出てきた。その次は電気窯。そしてガス窯です。非常にコンパクトな仕事場でやきものづくりができるようになってきた。それと同時に、窯道具の進化もありました。まず、この業界に入ったら土練りをするんですが、ドレン機が入ってきました。これは大きな進化でした。

—機械化の流れでやきものづくりが大きく変わった。

あともう一つ。砥部の仕事のウリはろくろです。蹴りろくろで約200年かけて砥部に素晴らしいろくろの技術が生まれ、私たちはそれを継承しているわけですが、そこから更にモーターで回るろくが出てきた。自分は大物をつくりたいから、ありがたかったですね。市販の機械ろくろじゃ回転力が足りないから、もっとパワーの大きいものをつくってもらったり。ものづくりというのは、道具を考えるのも面白いんです。足で蹴って回す回転力というのは限りがありますが、機械だと何十倍、何百倍の安定した力で回ってくれるわけです。ろくろ師は、ろくろが回ってくれないと仕事にならない。昔、大物に挑戦する人のことを「荒物師」と呼びましたが、もし、その職人たちが今の仕事ぶりを見ていたとすると、とても羨ましがるだろうな、と。「お前、それだけ上等のろくろ使って、こんだけのことしかできねぇのか。もっと頑張れ」と言われているような気もします(笑)。

窯元コラボレーションプロジェクト#八瑞窯

平成3年、松山空港の拡張整備と空港ビル新築を記念して建てられたモニュメント「えひめ三美神」

—機械ができて大量生産の方向に行くというだけでなく、砥部らしい進化というのはとても興味深いと思いました。白潟さんのこれまでで一番の大作をご紹介いただけますか?

松山空港にあるモニュメントでしょうか。高さは10m、9m、8mです。壺を串刺しにしているのですが、これは愛媛県と空港ビルの担当の方の働きで、イラストレーターの真鍋博さんのアイデアから生まれたものです。真鍋さんとの話の中で、砥部焼というキーワードが出たらしく、その後を彫刻家の田中高さんがリーダーとなり、そこからプロジェクトがスタートしました。当初は倍ぐらいの大きさのプランだったのですが、直径が1m5.6cmのものしか砥部の窯では焼けないんですね。なので、砥部で焼ける最大のものでつくらせてもらったというわけです。

—大物を作るうえでの技術をどう学んだのですか。

窯を始めた時に高橋正君(正月窯)という職人がいて、一緒にフィリピンにも行ったのですが、私が大きいのを作ると、彼もさらに大きいものをつくるというように切磋琢磨していったんですね。また、一気にろくろでつくることを一本引きというのですが、手の大きさには限界がある。だから、大きなものをつくる時には継いでみようと思い、その手法も覚えていきました。

—砥部の土は大物づくりに適していたのでしょうか。

他の土と比較しているわけではないので、わかりませんが、とにかく土がどんどんつくらせてくれたんです。これは職人にしかわからない感覚かもしれないのですが、土というのは非常に意地悪。こちらが未熟な間はなかなかつくらせてくれない。でも、腕を上げてくると土が先に動いてくれるような感覚があるんです。砥部の土がどういうプロ セスでつくられているか、当時は全然知らなかった。後になって調べるうちに、砥部では昔から近くの山などにあるほうぼうの石を混ぜて石粉にして原料がつくられていると知りました。なんとも思わず土を使っていたのですが、石を掘ってくれる人がいなくなって、それで我々もようやく気付いてきて。今は陶石を取ってくれているのが1カ所のみなんです。歴史上からいっても砥部の土はほうぼうから石を取らなくてはいけない。今の時代、それがとても難しいので自分でやるしかないな、と気がついて去年から石の採取を始め、窯業技術センターの力を借りて砥部の5カ所の陶石を混ぜた坏土を試験的につくりました。

窯元コラボレーションプロジェクト#八瑞窯

若手陶芸家集団「陶和会」のメンバーも参加し、先輩の仕事 を共に学ぶ技術継承の機会にもなった

窯元コラボレーションプロジェクト#八瑞窯

大物を継ぐ際には、断面中央が盛り上がるように形を整え、空気を 押し出しながら接着する。割れを回避するために経験から学んだ技

窯元コラボレーションプロジェクト#八瑞窯

ろくろの上に乗せた作品をゆっくり回しながら慎重に継ぎ目を 押さえつける。指や手の平など、感覚を頼りに接着させる


コラボレーション製作に挑戦してみて

—今回お願いするコラボレーションの作品で新しい土を使っていただいたんですよね。

昨夜は8人余り職人が来てくれて、新しい土で制作しました。使って、焼いてこれから結果が出るという段階です。石を掘ってくれる人、土をつくってくれる人がいてはじめて我々がやきものをつくれるんですね。まだこれからではあるのですが、窯業技術センターで科学的にも解析してもらって、原料のことにも踏み込んで考えていきたいと思っています。

—これからの砥部焼はどうあったらよいと思いますか。

自分としてのテーマは原点回帰ですね。土から砥部の特色を出して、砥部独自の磁器をつくっていきたい。幸い砥部の場合、原料はあるわけですから、そこで強みを出していけるとより魅力的になると思います。あとは、技術力の向上ですね。また、砥部は歴史的にも懐の広い産地です。今回のコラボレーションのように、新しいアイデアやアドバイスにも対応する姿勢をもつことで、進化を続けることができるのではないでしょうか。白青にはこれからもそういった新しい風を吹き込んでくれることを期待します。

窯元コラボレーションプロジェクト#八瑞窯

八瑞窯

愛媛県伊予郡砥部町五本松 156
TEL 089-962-2553
(営業時間 12:00〜17:00 不定休)
※見学希望の際は要事前連絡

掲載記事は2017年5月Shiro Ao MAGAZINE VOL.02のための取材より引用
Edit : Junko Shimizu (JUMBO EDITORIAL BASE)
Photo :
Sayuki Inoue (Top image)
Youhei Sogabe (Image in text)
Yusuke Kida (End of image)


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